自分だけの生き方!
~自分だけの生き方を謳歌する賢者への取材対談コーナー~
松本零士さん
生誕80歳記念
生誕80歳記念
宇宙を夢見た少年が歩んだ
80年の軌跡を振り返る
80年の軌跡を振り返る

日本を代表する漫画家であり、今年80歳(傘寿)を迎えた松本零士氏に、博士.com代表創業者の岩崎せいじが取材対談。戦争を体験した少年期、戦後の高度経済成長期を経て現代に至るまでの日本、世界を漫画家として、一人の人間としてどのように捉えてきたのか。現代(いま)を生きる人たちに伝えたいことなどを伺いました。
>>【動画版で見る】銀河鉄道999 キャプテンハーロック 宇宙戦艦ヤマトなどで知られる松本零士さん80歳お祝いへ 岩崎せいじ対談取材(博士.com 企画)<<
5歳の松本零士少年と15歳の手塚治虫青年が出会った昭和18年 運命の映画
「戦後は貧困などで生活が不安定なため、娯楽がないと暴動なんかが起きて危ないからという理由で、小倉には映画館が当時31館もあったんですよ」
――ひと地域に31館ってかなり多いですね。
「私は子供の頃に、そこで『風と共に去りぬ』やディズニーの『白雪姫』などのアニメーション、『ポパイ』なんかの漫画映画、あとソビエト映画なんかも含めてありとあらゆる映画を見ました」
――先生はもうその頃には絵は描かれていたんですか?
――ひと地域に31館ってかなり多いですね。
「私は子供の頃に、そこで『風と共に去りぬ』やディズニーの『白雪姫』などのアニメーション、『ポパイ』なんかの漫画映画、あとソビエト映画なんかも含めてありとあらゆる映画を見ました」
――先生はもうその頃には絵は描かれていたんですか?
「もちろんです。私が絵を描き始めたのは5歳の時ですから」
「忘れもしない、昭和18年。私は5歳でした。戦時中でしたが、姉が特別に私を明石の映画館に連れて行ってくれたんです」
――それは何という映画だったんですか?
「忘れもしない、昭和18年。私は5歳でした。戦時中でしたが、姉が特別に私を明石の映画館に連れて行ってくれたんです」
――それは何という映画だったんですか?
「『くもとちゅうりっぷ』という短編のミュージカルアニメーション映画です。この映画は虫が主人公なんですが、私は虫が大好きだったのですごく嬉しかったです。チューリップが主人公のテントウムシの女の子をクモから守るお話なんですよ」
「私が初めて書いた漫画『蜜蜂の冒険』という漫画は、この『くもとちゅうりっぷ』の影響を強く受けています」
「面白いのが、この映画を当時15歳だった手塚治虫少年が見ていたんです。しかも、同じ場所の同じ日、同じ時間、同じ画面を見ていたんです」
「そして、同じように僕たちの心には火が付き、同時にアニメマニアになりました」
――それは、すごい運命ですね!その日に同じ場所でその映画を見ていた二人が、その後日本を代表する漫画家、アニメに関わる二人になるんですから!
「それからはどこに行っても私は漫画を描き続け、高校1年の始めに投稿した『蜜蜂の冒険』で『漫画少年』の新人賞をいただき、雑誌に掲載されました。その漫画を見た手塚さんから「なんであんた『くもとちゅうりっぷ』みたいな漫画を描くんだ?」って聞かれたことがありまして」
「僕が『明石で見ました』って言ったら『俺もそこにいたんだよ!』なんて話になって(笑)お互いそこで初めて知ったんですよ、同じ場所で見ていたことを」
「私が初めて書いた漫画『蜜蜂の冒険』という漫画は、この『くもとちゅうりっぷ』の影響を強く受けています」
「面白いのが、この映画を当時15歳だった手塚治虫少年が見ていたんです。しかも、同じ場所の同じ日、同じ時間、同じ画面を見ていたんです」
「そして、同じように僕たちの心には火が付き、同時にアニメマニアになりました」
――それは、すごい運命ですね!その日に同じ場所でその映画を見ていた二人が、その後日本を代表する漫画家、アニメに関わる二人になるんですから!
「それからはどこに行っても私は漫画を描き続け、高校1年の始めに投稿した『蜜蜂の冒険』で『漫画少年』の新人賞をいただき、雑誌に掲載されました。その漫画を見た手塚さんから「なんであんた『くもとちゅうりっぷ』みたいな漫画を描くんだ?」って聞かれたことがありまして」
「僕が『明石で見ました』って言ったら『俺もそこにいたんだよ!』なんて話になって(笑)お互いそこで初めて知ったんですよ、同じ場所で見ていたことを」
多くの有名人が住む『小倉』で出会った『寳文館の娘 中尾ミエ』
「その後、毎日新聞西部本社の『毎日小学生新聞』で連載を担当させてもらえるようになり、当時は極貧だったんで、高校に通いながら連載し、もらえる1日350円を学費と家計費にして高校生活を乗り切りました」
――先生はその頃はまだ小倉にお住まいだったんですか?
「はい、私が上京したのは高校卒業後の18歳の終わりの時だったので。小倉は面白いところでして、叔父の家の近くには松本清張さんの家があったり、芸能人の中尾ミエさんや山本リンダさん、同じ漫画家の萩尾望都さんも住んでいましたね」
――小倉ってそんなに有名な方がたくさん住んでいたんですね。
「中尾ミエさんの実家は『寳文館』という本屋をやっていまして、よく学校の帰りに立ち寄っては漫画や教科書を買っていました。藤子不二雄氏(当時はまだ足塚不二雄と名乗っていた)の『UTOPIA 最後の世界大戦』の初版本なんかもそこで買いましたね」
「寳文館には学校から命ぜられて教科書の分類などでもよくいっていたので、中尾ミエさんは今でも私に名乗るときには『寳文館の娘です』なんていいます」
「高校を卒業するまでには大学も受験をして合格もしていましたが、家計が苦しく、親父からも諦めてくれと言われ、私は進学せずに上京することにしました。それが、18歳の終わりの頃でした」
「汽車に乗って関門海峡に入ると、目の前が真っ暗になるわけですよ。そして、暗闇を抜けて下関側に出たときに、私はまるで別世界にきたような不思議な感覚でした。こういった若い頃に見た情景なども漫画の中の一場面になったりするんです」

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漫画家 松本零士さん生誕80歳記念 取材 対談 宇宙を夢見た少年が歩んだ80年の軌跡を振り返る

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漫画家 松本零士さん生誕80歳記念 取材 対談 宇宙を夢見た少年が歩んだ80年の軌跡を振り返る
― 松本零士さん生誕80歳記念 ― 宇宙を夢見た少年が歩んだ80年の軌跡を振り返る - 漫画家 松本零士さん -

漫画家 松本零士さん生誕80歳記念| 宇宙を夢見た少年が歩んだ80年の軌跡を振り返る

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