自分だけの生き方!
~自分だけの生き方を謳歌する賢者への取材対談コーナー~
自然と遊び、科学を楽しみ、科学を通じた『実体験の大切さ』を伝えるサイエンスプロデューサー
米村でんじろう先生

日本全国で『サイエンスショー』や『実験教室』を開催し、子供たちに勉強としての『科学』だけではない、科学の持つ『面白さ・楽しさ』を知ってもらい、興味・関心を持つことで初めてわかる『学びの楽しさ』を教えるサイエンスプロデューサー『米村でんじろう』さんに、博士.com代表創業者の岩崎せいじが取材対談。高校教師時代を経て、これまでにはなかったサイエンスプロデューサーという新たな職業の開拓、その過程における試行錯誤、これからの時代の中で子どもたちに伝えたいこと、そして、AIなどの最新テクノロジーについての考えなどを伺いました。
NHKの実験番組『やってみようなんでも実験』への企画協力としての参加/ドキュメンタリー番組への出演を経て教師からフリーへの転向
最初に赴任した高校では、学校教育としての『いい授業』をやろうとして、でもそれは叶わず、授業に興味を持ってもらうための『つかみ』だったはずの実験がメインとなり、その実験に没頭して、埋没してたくさんの実験を考えては実践して、実験のレパートリーはどんどん増えていきました。その頃は教師をしながらNHKの通信高校講座の実験の手伝いなどもやっていましたね。当時は都立高校の先生がそういう実験の手伝いをしていたんですよ。
その通信高校講座の手伝いを辞めた数年後に、別の理科の番組のディレクターさんから実験番組なんかを作るために他のディレクターたちも交えて月に一回勉強会をやるから来て欲しいなんて誘われまして。
そこでいろんな実験を紹介していたら少しずつ人脈ができ、今度はそこのディレクターから学校放送の中高生向けの理科の実験番組を頼まれて、またNHKの番組をやることになり、その番組は僕が教師を辞める頃ぐらいまで続きました。
その通信高校講座の手伝いを辞めた数年後に、別の理科の番組のディレクターさんから実験番組なんかを作るために他のディレクターたちも交えて月に一回勉強会をやるから来て欲しいなんて誘われまして。
そこでいろんな実験を紹介していたら少しずつ人脈ができ、今度はそこのディレクターから学校放送の中高生向けの理科の実験番組を頼まれて、またNHKの番組をやることになり、その番組は僕が教師を辞める頃ぐらいまで続きました。
教師としては、最初の赴任校から次の赴任校に異動しましたが、そこは進学校だったこともあり、僕の実験を中心とした教育はなかなか受け入れられず、僕自身も教師という仕事に向いていないことを感じ、悩み始めていました。
丁度僕が教師を辞めようか考え始めた頃に、付き合いのあった制作会社からNHKの教育枠だけど一般視聴のある『やってみようなんでも実験』という30分番組を作るからブレーン(企画のアイディア出し)として参加してくれないかと誘われて、教師をしながら番組が立ち上がる前の企画相談から参加して、僕が高校を辞める1年前に番組がスタートしました。
教育番組と言っても学校枠ではないので、その番組にはMCさんがいたり、アシスタントやリポーターのお姉さんがいたり、その中で実験をやったりと色々新鮮な経験が出来て楽しかったですね。これまでのテレビの仕事の環境とも全然違いましたし。
隔週くらいでその企画の手伝いをしにいくようになるんですが、当日の実験準備とかはそんなにお金がもらえるわけじゃないし、その企画の打ち合わせがあるのは日曜日だから、まだ教師をやりながら参加していたので、実質休日を返上してスタジオに行き、一日手伝いをしていました。でも、それがすごく面白いから、僕は喜んでスタジオに通っていました。
その後もその制作会社との関係は続き、当時社会問題となっていた『理科離れ』をテーマとして取り上げたドキュメンタリー番組(オレは日本のガリレオだ!?)に僕自身が出演することになったんですよ。しかも、僕が企画を聞かされた時には、既にNHKに企画書が提出された後でした(笑)さらに、その企画がすごい競争率の中、通ってしまったんです。
ただ、そのドキュメンタリー番組を撮影する頃には、僕は教師を辞めようと決めていたので、その顛末を在任中から辞める時までの期間撮影し、ドキュメンタリーを作ることになりました。教師をしている頃は、学校にロケに来てカメラが教室に入ってきたり、その後は色々なところにロケにいきました。
――ちなみに、ドキュメンタリー番組ではどんな実験を披露されたんですか?
丁度僕が教師を辞めようか考え始めた頃に、付き合いのあった制作会社からNHKの教育枠だけど一般視聴のある『やってみようなんでも実験』という30分番組を作るからブレーン(企画のアイディア出し)として参加してくれないかと誘われて、教師をしながら番組が立ち上がる前の企画相談から参加して、僕が高校を辞める1年前に番組がスタートしました。
教育番組と言っても学校枠ではないので、その番組にはMCさんがいたり、アシスタントやリポーターのお姉さんがいたり、その中で実験をやったりと色々新鮮な経験が出来て楽しかったですね。これまでのテレビの仕事の環境とも全然違いましたし。
隔週くらいでその企画の手伝いをしにいくようになるんですが、当日の実験準備とかはそんなにお金がもらえるわけじゃないし、その企画の打ち合わせがあるのは日曜日だから、まだ教師をやりながら参加していたので、実質休日を返上してスタジオに行き、一日手伝いをしていました。でも、それがすごく面白いから、僕は喜んでスタジオに通っていました。
その後もその制作会社との関係は続き、当時社会問題となっていた『理科離れ』をテーマとして取り上げたドキュメンタリー番組(オレは日本のガリレオだ!?)に僕自身が出演することになったんですよ。しかも、僕が企画を聞かされた時には、既にNHKに企画書が提出された後でした(笑)さらに、その企画がすごい競争率の中、通ってしまったんです。
ただ、そのドキュメンタリー番組を撮影する頃には、僕は教師を辞めようと決めていたので、その顛末を在任中から辞める時までの期間撮影し、ドキュメンタリーを作ることになりました。教師をしている頃は、学校にロケに来てカメラが教室に入ってきたり、その後は色々なところにロケにいきました。
――ちなみに、ドキュメンタリー番組ではどんな実験を披露されたんですか?
学校でそれまでに授業でやっていた実験をやりましたよ、電気でピリッと来る実験とか。また、当時は学校外での実験教室みたいものも流行っていて、そういう活動もやっていたから学校外に親子で集まってもらって教室をやったりとか、同じようなイベントが科学館を会場に様々なところで開催されていたので、そういった活動を追いかけて番組にしていきました。
その他、丁度研究会仲間とアメリカに行く予定があったので、アメリカに行ってるシーンとかを入れたりもしましたね。
最終的には、僕を番組構成の縦軸として、各地の科学実験教室みたいなものなどを紹介したり、そこから理科離れが進んでいることに焦点を当てたドキュメンタリーの番組になりました。 その番組はゴールデンウィークに放送されて、僕も5月には教師を辞めました。
その他、丁度研究会仲間とアメリカに行く予定があったので、アメリカに行ってるシーンとかを入れたりもしましたね。
最終的には、僕を番組構成の縦軸として、各地の科学実験教室みたいなものなどを紹介したり、そこから理科離れが進んでいることに焦点を当てたドキュメンタリーの番組になりました。 その番組はゴールデンウィークに放送されて、僕も5月には教師を辞めました。
――都立高校の教師という安定した職業から、いきなり不安定なフリーへの転向に不安はなかったんですか?
もちろんありましたよ。僕もその頃40歳という転職願望が出てくる時期でもありまたから、頭の中では少し時間が経てばまた教師をやりたくなるだろうという気持ちもありました。でも、やっぱり続かないかもしれない、それに今この歳で転職しなかったらますます無理になるんじゃないかと、迷いに迷いました。でも、やっぱり教師に向いていない、自分としても苦しいし、生徒としても迷惑ですしね、ここで切り替えようって。
それまでにNHKの実験番組の手伝いをやったり、科学技術館の展示更新の時に手伝ったりしたこともあって、学校外の仕事に目が向いていたのもありますね。もちろんそれだけで、食べていけるほど甘くはないんですけどね。
ただ、教師を辞めてからすごく惜しいことをしたなと思ったことはありました。それは『生徒とのふれあい』でした。あんなに毎年いろんな生徒と交流することができる職業ってそうそうないですからね。
――でんじろう先生も生徒たちから英気をもらっていたんですね。
もちろんですよ。先生と生徒という関係ではありますが、根本は人間と人間ですからやっぱり、交流があるわけで、なかなかできる体験ではありません。そういう意味ではすごく魅力的な仕事ですよ、教師は。
――どこかに勤めようとは考えなかったんですか?
教師を辞めようと決めた時には科学館への勤務も考えましたが、科学館に入ろうにもそこにはそこの採用があり、40歳で雇ってくれるとは思えないし、企業なんかもっと無理でしょう。 それに僕がやりたかった実験を中心とした『サイエンスプロデューサー』という仕事は、世の中にはない仕事ですからね(笑)
もちろんありましたよ。僕もその頃40歳という転職願望が出てくる時期でもありまたから、頭の中では少し時間が経てばまた教師をやりたくなるだろうという気持ちもありました。でも、やっぱり続かないかもしれない、それに今この歳で転職しなかったらますます無理になるんじゃないかと、迷いに迷いました。でも、やっぱり教師に向いていない、自分としても苦しいし、生徒としても迷惑ですしね、ここで切り替えようって。
それまでにNHKの実験番組の手伝いをやったり、科学技術館の展示更新の時に手伝ったりしたこともあって、学校外の仕事に目が向いていたのもありますね。もちろんそれだけで、食べていけるほど甘くはないんですけどね。
ただ、教師を辞めてからすごく惜しいことをしたなと思ったことはありました。それは『生徒とのふれあい』でした。あんなに毎年いろんな生徒と交流することができる職業ってそうそうないですからね。
――でんじろう先生も生徒たちから英気をもらっていたんですね。
もちろんですよ。先生と生徒という関係ではありますが、根本は人間と人間ですからやっぱり、交流があるわけで、なかなかできる体験ではありません。そういう意味ではすごく魅力的な仕事ですよ、教師は。
――どこかに勤めようとは考えなかったんですか?
教師を辞めようと決めた時には科学館への勤務も考えましたが、科学館に入ろうにもそこにはそこの採用があり、40歳で雇ってくれるとは思えないし、企業なんかもっと無理でしょう。 それに僕がやりたかった実験を中心とした『サイエンスプロデューサー』という仕事は、世の中にはない仕事ですからね(笑)

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